2025年2月6日木曜日

 【夜明け前拾い読み-30】

鳥羽伏見の戦いを制し、何とか新政府の足場を築いた新政府は「攘夷」を捨て外国公使(英・仏・蘭)に対し、天皇の謁見を認めました。直前に勃発した神戸・三宮事件(備前藩士による外国人襲撃)、堺・旭茶屋事件(土佐藩士による外国人襲撃)に見るように以前攘夷の熱は収まりそうもなく、ましてや公使京都入府から天皇謁見となると京都市中は大変な騒ぎとなりました。しかし外国受け入れは時代の流れとして避けられない情勢ではありました。新政府から護衛と手引きの命を受けた小松帯刀らの官吏も決死の思いで任務に当たったことでしょう。

以下本文より抜粋しました。

*****

いよいよその日の午後には、新帝も南殿に出御して各国代表者の御挨拶を受けさせられる、公使らの随行員にまで謁見を許される、その間には楽人の奏楽まである、このうわさが人の口から口へと伝わった。新政府の処置挙動に不満を抱くものはもとより少なくない。こんな外国の侵入者がわが禁闕の下に至るのは許しがたいことだとして、攘夷の決行されないのを慷慨するものもある。官吏ともあろうものが夷狄の輩を引いて皇帝陛下の謁見を許すごときは、そもそも国体を汚すの罪人だというような言葉を書きつらね、係りの官吏および外国公使を誅戮すべしなどとした壁書も見いだされる。腕をまくるもの、歯ぎしりをかむものは、激しい好奇心に燃えている群集の中を分けて、西に東にと走り回った。三条、二条の通りを縦に貫く堺町あたりの両側は、公使らの参内を待ち受ける人で、さながら立錐の地を余さない。

*****

#夜明け前

#島崎藤村

2025年2月2日日曜日

 【夜明け前拾い読み-29】

旧態依然とした幕府の諸制度を次々と改革し、横須賀造船所建設など軍事・産業の興産にも手をつけた後、15代将軍慶喜が大政奉還への思いを述べた部分です。外国による侵略(植民地化)から日本を守るため朝廷を補完するしかないと考えたようです。
以下本文より抜粋しました。()内は私の注釈です。

*****
この上は、ただ自身に反省して、己を責め、私を去り、従前の非政を改め、至忠至公の誠心をもって天下と共に朝廷を輔翼し奉るのほかはない。その事は神祖(家康)の神慮にも適うであろう。神祖は天下の安からんがために政権を執ったもので、天下の政権を私せられたのではない。自分もまた、天下の安からんがために徳川氏の政権を朝廷に還し奉るものであるから、取捨は異なるとも、朝廷に報ゆるの意はすなわち一つである。あるいは、政権返上の後は諸侯割拠の恐れがあろうとの説を出すものもあるが、今日すでに割拠の実があるではないか。幕府の威令は行なわれない。諸侯を召しても事を左右に託して来たらない。これは幕府に対してばかりでなく、朝命ですら同様の状態にある。この際、朝威を輔け、諸侯と共に王命を奉戴して、外国の防侮に力を尽くさなかったら、この日本のことはいかんともすることができないかもしれないと。
*****

#夜明け前
#島崎藤村

2025年2月1日土曜日

 【夜明け前拾い読み-28】

禁門の変で敗れ、下関戦争で痛手をを負った長州ですが、これを機に武力強化を図りそれをイギリスが支援しました。一方幕府の統制は崩れるばかりで、長征の途中大阪で将軍の薨去というオマケまでついて長征軍が力なく江戸に引き上げる様子を街道筋で目の当たりにした妻籠宿の寿平次の述懐です

以下本文抜粋しました。


*****

しかし、半蔵さん、征討軍の鉄砲や大筒は古風で役に立たなかったそうですね。なんでも、長防の連中は農兵までが残らず西洋の新式な兵器で、寄せ手のものはポンポン撃たれてしまったと言うじゃありませんか。あのミニエール銃というやつは、あれはイギリスが長州に供給したんだそうですね。国情に疑惑があらばいくらでも尋問してもらおう、直接に外国から兵器を供給された覚えはないなんて、そんなに長防の連中が大きく出たところで、後方に薩摩やイギリスがついていて、どんどんそれを送ったら、同じ事でさ。そこですよ。君。諸藩に率先して異国を排斥したのはだれだくらいは半蔵さんだっても覚えがありましょう。あれほど大きな声で攘夷を唱えた人たちが、手の裏をかえすように説を変えてもいいものでしょうかね。そんなら今までの攘夷は何のためです。

*****


#夜明け前

#島崎藤村

2025年1月23日木曜日

【夜明け前拾い読み-27】

筑波から怒涛に勢いで西上した筑波尊攘派は加賀藩に一旦手厚い保護を受け武器も引き渡したが、最終的には幕府総督田沼玄蕃頭に引き渡され敦賀にて幹部以下大量の死罪処分を受け事件は終了しました。

以下本文抜粋しました。

*****

 「水戸の人たちも、えらいことになったそうだね。」 それを半蔵が言い出すと、浪士ら最期のことが、諏訪の百姓の口からもれて来た。二月の朔日、二日は敦賀の本正寺で大将方のお調べがあり、四日になって武田伊賀守はじめ二十四人が死罪になった。五日よりだんだんお呼び出しで、降蔵同様に人足として連れられて行ったものまで調べられた。降蔵は六番の土蔵にいたが、その時白洲に引き出されて、五日より十日まで惣勢かわるがわる訊問を受けた。浪士らのうち、百三十四人は十五日に、百三人は十六日に打ち首になった。(中略)「お前は小荷駄掛りの亀山嘉治のことを聞かなかったかい。あの人はわたしの旧い友だちだが。」「へえ、わたくしは正武隊付きで、兵糧方でございましたから、よくも存じませんが、重立った御仁で助けられたものは一人もございませんようです。(中略)先月十七日以後のこともすこしは存じておりますが、十九日にも七十六人、二十三日も十六人が打ち首になりました。」「とうとう、あの亀山も武田耕雲斎や藤田小四郎なぞと死生を共にしたか。」 半蔵はお民と顔を見合わせた。

*****

#夜明け前

#島崎藤村

2025年1月22日水曜日

 【夜明け前拾い読み-26】

主人公(半蔵)は伊那で久しぶりにかっての同志(国学)と深く交流し、宣長・篤胤の教えに新たなる想いを抱きました。しかし私としては現実から離れた日本民族内でしか通用しない理想論というもどかしさを感じます。欧米社会とともにこの理想をともに共有するのは不可能で欧米から日本社会を守る「防衛力」が必須と思うからです。

欧米の軍事力で痛手を被った薩摩長州はいち早く欧米式の武器を手にし、さらには自ら製造することに意を注ぎ近代式軍事訓練を学ぶため欧米に使者を派遣しています。そしてこの軍事力で戊辰戦争を圧勝で終わらせ、その後欧米の植民地に堕ちることも回避できました。

ただ国学の理想からは大きく逸脱し、廃仏希釈のような誤った政策により日本民族の精神的誇りも失う結果になったように思います。現代に大きく飛躍しますが故安倍元総理はこの二つを同時に実現しようと試みたように思います。


以下本文抜粋しました。


*****

この新しき古は、中世のような権力万能の殻を脱ぎ捨てることによってのみ得らるる。この世に王と民としかなかったような上つ代に帰って行って、もう一度あの出発点から出直すことによってのみ得らるる。この彼がたどり着いた解釈のしかたによれば、古代に帰ることはすなわち自然に帰ることであり、自然に帰ることはすなわち新しき古を発見することである。中世は捨てねばならぬ。近つ代は迎えねばならぬ。どうかして現代の生活を根からくつがえして、全く新規なものを始めたい。そう彼が考えるようになったのもこの伊那の小さな旅であった。

*****


#夜明け前

#島崎藤村

2025年1月20日月曜日

 【夜明け前拾い読み-25】

ここの文章で藤村が尊王攘夷水戸学派に大きな共感をもっていることが良く分かります。それゆえ彼らの西行き旅程に多くの紙面を割いたのでしょう。

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。

*****

筑波の脱走者、浮浪の徒というふうに、世間の風評のみを真に受けた地方人民の中には、実際に浪士の一行を迎えて見て旅籠銭一人前弁当用共にお定めの二百五十文ずつ払って通るのを意外とした。あるものはまた、一行と共に動いて行く金の葵紋の箱、長柄の傘、御紋付きの長持から、長棒の駕籠の類まであるのを意外として、まるで三、四十万石の大名が通行の騒ぎだと言うものもある。しかし、それも理のないことではない。なぜかなら、その葵紋の箱も、傘も、長持も、長棒の駕籠も、すべて水戸烈公(徳川斉昭)を記念するためのものであったからで。たとい御隠居はそこにいないまでも、一行が「従二位大納言」の大旗を奉じながら動いて行くところは、生きてる人を護るとほとんど変わりがなかったからで。あの江戸駒込の別邸で永蟄居を免ぜられたことも知らずじまいにこの世を去った御隠居が生前に京都からの勅使を迎えることもできなかったかわりに、今「奉勅」と大書した旗を押し立てながら動いて行くのは、その人の愛する子か孫かのような水戸人もしくは準水戸人であるからで。幕府のいう賊徒であり、反対党のいう不忠の臣である彼らは、そこにいない御隠居にでもすがり、その人の志を彼らの志として、一歩でも遠く常陸のふるさとから離れようとしていたからで。

*****


#夜明け前

#島崎藤村


【夜明け前拾い読み-24】

木曽街道を西に移動していた水戸藩尊攘派と幕府の命を受けた諏訪・松本藩の討伐隊は下諏訪・砥沢口で衝突し、水戸藩尊攘派が勝利しました。

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。

*****

その時浪士の一人が山の上から放った銃丸は松本勢を指揮する大将に命中した。混乱はまずそこに起こった。勢いに乗じた浪士の一隊は小銃を連発しながら、直下の敵陣をめがけて山から乱れ降った。 耕雲斎は砥沢口まで進出した本陣にいた。それとばかり采配を振り、自ら陣太鼓を打ち鳴らして、最後の突撃に移った。あたりはもう暗い。諏訪方ではすでに浮き腰になるもの、後方の退路を危ぶむものが続出した。その時はまだまだ諏訪勢の陣は堅く、樋橋に踏みとどまって頑強に抵抗を続けようとする部隊もあったが、崩れはじめた全軍の足並みをどうすることもできなかった。もはや松本方もさんざんに見えるというふうで、早く退こうとするものが続きに続いた。 とうとう、田沼玄蕃頭(幕府から派遣の討伐軍)は来なかった。合戦は諏訪松本両勢の敗退となった。

*****

#夜明け前

#島崎藤村