2025年1月20日月曜日

【夜明け前拾い読み-23】

幕末における水戸藩は佐幕派の総本山という印象をもっていたのですが、ここでも佐幕・尊攘の激しい戦いがあったようです。藩内では佐幕派が勝利し尊攘派は大挙して西へ大移動し、移動中の街道筋にも大混乱を引き起こしています。小説は何故かこの道中にかなりの紙面を割いています。

以下本文抜粋しました。

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水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もない。それは実に藩論分裂の形であらわれて来た。もとより、一般の人心は動揺し、新しい世紀もようやくめぐって来て、だれもが右すべきか左すべきかと狼狽する時に当たっては、二百何十年来の旧を守って来た諸藩のうちで藩論の分裂しないところとてもなかった。水戸はことにそれが激しかったのだ。『大日本史』の大業を成就して、大義名分を明らかにし、学問を曲げてまで世に阿るものもある徳川時代にあってとにもかくにも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。彰考館の修史、弘道館の学問は、諸藩の学風を指導する役目を勤めた。当時における青年で多少なりとも水戸の影響を受けないものはなかったくらいである。いかんせん、水戸はこの熱意をもって尊王佐幕の一大矛盾につき当たった。

(中略)

湊の戦いで、大炊頭が幕府方の田沼玄蕃頭に降るころは、民兵や浮浪兵の離散するものも多かった。天狗連の全軍も分裂して、味方の陣営に火を放ち、田沼侯に降るのが千百人の余に上った。稲右衛門の率いる筑波勢の残党は湊の戦地から退いて、ほど近き館山に拠る耕雲斎の一隊に合流し、共に西に走るのほかはなかったのである。

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2025年1月18日土曜日

【夜明け前拾い読み-22】

長州勢決死の攻勢は蛤御門前で最高潮に達したが、勇猛な会津勢を中心とした幕府勢に敗れ敗走しました。同時に尊王攘夷の急先鋒であった真木和泉(久留米藩)も最後は天王山にて自刃しました。

以下本文抜粋しました。

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なんと言っても蛤御門の付近は最も激戦であった。この方面は会津、桑名の護るところであったからで。皇居の西南には樟の大樹がある。築地を楯とし家を砦とする戦闘はその樹の周囲でことに激烈をきわめたという。その時になって長州は実にその正反対を会津に見いだしたのである。薩州勢なぞは別の方面にあって幕府方に多大な応援を与えたけれども、会津ほど正面の位置には立たなかった。ひたすら京都の守護をもって任ずる会津武士は敵として進んで来る長州勢を迎え撃ち、時には蛤御門を押し開き、筒先も恐れずに刀鎗を用いて接戦するほどの東北的な勇気をあらわしたという。 この市街戦はその日未の刻の終わりにわたった。長州方は中立売、蛤門、境町の三方面に破れ、およそ二百余の死体をのこしすてて敗走した。兵火の起こったのは巳の刻のころであったが、おりから風はますます強く、火の子は八方に散り、東は高瀬川から西は堀川に及び、南は九条にまで及んで下京のほとんど全都は火災のうちにあった。年寄りをたすけ幼いものを負った男や女は景蔵の右にも左にもあって、目も当てられないありさまであったと認めてある。

(中略)

しかし、景蔵の手紙はそれだけにとどまらない。その中には、真木和泉の死も報じてある。弘化安政のころから早くも尊王攘夷の運動を起こして一代の風雲児と謳われた彼、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人の計画に出たと言わるる彼、この尊攘の鼓吹者は自ら引き起こした戦闘の悲壮な空気の中に倒れて行った。彼は最後の二十一日まで踏みとどまろうとしたが、その時は山崎に退いた長州兵も散乱し、久坂、寺島、入江らの有力な同僚も皆戦死したあとで、天王山に走って、そこで自刃した。

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2025年1月17日金曜日

【夜明け前拾い読み-21】

1863年攘夷・反幕府を公然と掲げ大和から天誅組の一揆が起こり、半年後に鎮圧されたが幕府の狼狽ぶりも明白になりました。この翌年に蛤御門の変が起きます。

以下本文抜粋しました。


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とうとう、新しい時代の来るのを待ち切れないような第一の烽火が大和地方に揚がった。これは千余人から成る天誅組の一揆という形であらわれて来た。紀州、津、郡山、彦根の四藩の力でもこれをしずめるには半月以上もかかった。しかし闇の空を貫く光のように高くひらめいて、やがて消えて行ったこの出来事は、名状しがたい暗示を多くの人の心に残した。従来、討幕を意味する運動が種々行なわれないでもないが、それは多く示威の形であらわれたので、かくばかり公然と幕府に反旗を翻した

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【夜明け前拾い読み-20】

生麦事件後イギリスの高圧的な態度は激化していき、ついに薩長戦争にいたりました。この時点で薩摩も償金十万ポンドで十分とし譲歩の意思はまったくなかったようです、

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。

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半蔵は西から来る飛脚のうわさを聞いた。屈辱の外交とまで言われて支払い済みとなった生麦償金十万ポンドのほかに、被害者の親戚および負傷者の慰藉料としてイギリスから請求のあった二万五千ポンドはそのままに残っていて、あの問題はどうなったろうとは、かねて多くの人の心にかかっていた。はたして、イギリスは薩州侯と直接に交渉しようとするほどの強硬な態度に出て、薩摩方ではその請求を拒絶したという。西からの飛脚が持って来たうわさはその談判の破裂した結果であった。九隻からのイギリス艦隊は薩摩の港に迫ったという。海と陸とでの激しい戦いはすでに戦われたともいうことであった。

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2025年1月16日木曜日

【夜明け前拾い読み-19】

現役を辞した父親に代わって本格的に取り組み始めた庄屋・本陣という主に武家のための仕事と国学者と言う勤皇派に近い立場との矛盾・軋轢を感じ始めていたようです。

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。

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「お民、おれのお母さんが亡くなってから、三十三年になるよ。」 と彼は妻に言って見せた。さびしい雨の音をきいていると、過去の青年時代を繞(めぐ)りに繞ったような名のつけようのない憂鬱がまた彼に帰って来る。 お民はすこし青ざめている夫の顔をながめながら言った。「あなたはため息ばかりついてるじゃありませんか。」「どうしておれはこういう家に生まれて来たかと考えるからさ。」 お民が奥の部屋の方へ子供を見に行ったあとでも、半蔵は囲炉裏ばたを離れなかった。彼はひとり周囲を見回した。遠い先祖から伝えられた家業を手がけて見ると、父吉左衛門にしても、祖父半六にしても、よくこのわずらわしい仕事を処理して来たと彼には思わるるほどだ。

(中略)

地方自治の一単位として村方の世話をする役を除いたら、それ以外の彼の勤めというものは、主として武家の奉公である。一庄屋としてこの政治に安んじられないものがあればこそ、民間の隠れたところにあっても、せめて勤王の味方に立とうと志している彼だ。周囲を見回すごとに、他の本陣問屋に伍して行くことすら彼には心苦しく思われて来た。

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2025年1月15日水曜日

 【夜明け前拾い読み-18】

攘夷論が沸騰してきて世が騒然となりつつあるようです。幕府には井伊大老のように攘夷を抑える幕閣はすでになく、もともと穏健だった平田派国学者も時流に流される傾向が出てきたようです。

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。

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その月の八日はかねて幕府が問題の生麦事件でイギリス側に確答を約束したと言われる期日であり、十日は京都を初め列藩に前もって布告した攘夷の期日である。京都の友だちからも書いて来たように、イギリスとの衝突も避けがたいかに見えて来た。

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2025年1月14日火曜日

【夜明け前拾い読み-17】

平田国学には攘夷という考えはあまりなかったようです。

以下私の解釈ですが

但しそれは「考え方やこれまでの風習と異なってもむやみに排斥するな」と言う程度のもので日本人にとって「暴挙」と言えるものをどうするかは教えていない。黒船来襲の前ですから。平田が現代に生きていて埼玉などの不法滞在外国人の暴挙をみたらどう思うか聞いてみたいところです。

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。

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先師(平田篤胤)と言えば、外国よりはいって来るものを異端邪説として蛇蝎のように憎みきらった人のように普通に思われているが、『静の岩屋』(平田の著作)なぞをあけて見ると、近くは朝鮮、シナ、インド、遠くはオランダまで、外国の事物が日本に集まって来るのは、すなわち神の心であるというような、こんな広い見方がしてある。

先師は異国の借り物をかなぐり捨てて本然の日本に帰れと教える人ではあっても、むやみにそれを排斥せよとは教えてない。 この『静の岩屋』の中には、「夷」という古言まで引き合いに出して、その言葉の意味が平常目に慣れ耳に触れるとは異なった事物をさしていうに過ぎないことも教えてある。

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