2025年1月18日土曜日

【夜明け前拾い読み-22】

長州勢決死の攻勢は蛤御門前で最高潮に達したが、勇猛な会津勢を中心とした幕府勢に敗れ敗走しました。同時に尊王攘夷の急先鋒であった真木和泉(久留米藩)も最後は天王山にて自刃しました。

以下本文抜粋しました。

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なんと言っても蛤御門の付近は最も激戦であった。この方面は会津、桑名の護るところであったからで。皇居の西南には樟の大樹がある。築地を楯とし家を砦とする戦闘はその樹の周囲でことに激烈をきわめたという。その時になって長州は実にその正反対を会津に見いだしたのである。薩州勢なぞは別の方面にあって幕府方に多大な応援を与えたけれども、会津ほど正面の位置には立たなかった。ひたすら京都の守護をもって任ずる会津武士は敵として進んで来る長州勢を迎え撃ち、時には蛤御門を押し開き、筒先も恐れずに刀鎗を用いて接戦するほどの東北的な勇気をあらわしたという。 この市街戦はその日未の刻の終わりにわたった。長州方は中立売、蛤門、境町の三方面に破れ、およそ二百余の死体をのこしすてて敗走した。兵火の起こったのは巳の刻のころであったが、おりから風はますます強く、火の子は八方に散り、東は高瀬川から西は堀川に及び、南は九条にまで及んで下京のほとんど全都は火災のうちにあった。年寄りをたすけ幼いものを負った男や女は景蔵の右にも左にもあって、目も当てられないありさまであったと認めてある。

(中略)

しかし、景蔵の手紙はそれだけにとどまらない。その中には、真木和泉の死も報じてある。弘化安政のころから早くも尊王攘夷の運動を起こして一代の風雲児と謳われた彼、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人の計画に出たと言わるる彼、この尊攘の鼓吹者は自ら引き起こした戦闘の悲壮な空気の中に倒れて行った。彼は最後の二十一日まで踏みとどまろうとしたが、その時は山崎に退いた長州兵も散乱し、久坂、寺島、入江らの有力な同僚も皆戦死したあとで、天王山に走って、そこで自刃した。

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