2025年1月23日木曜日

【夜明け前拾い読み-27】

筑波から怒涛に勢いで西上した筑波尊攘派は加賀藩に一旦手厚い保護を受け武器も引き渡したが、最終的には幕府総督田沼玄蕃頭に引き渡され敦賀にて幹部以下大量の死罪処分を受け事件は終了しました。

以下本文抜粋しました。

*****

 「水戸の人たちも、えらいことになったそうだね。」 それを半蔵が言い出すと、浪士ら最期のことが、諏訪の百姓の口からもれて来た。二月の朔日、二日は敦賀の本正寺で大将方のお調べがあり、四日になって武田伊賀守はじめ二十四人が死罪になった。五日よりだんだんお呼び出しで、降蔵同様に人足として連れられて行ったものまで調べられた。降蔵は六番の土蔵にいたが、その時白洲に引き出されて、五日より十日まで惣勢かわるがわる訊問を受けた。浪士らのうち、百三十四人は十五日に、百三人は十六日に打ち首になった。(中略)「お前は小荷駄掛りの亀山嘉治のことを聞かなかったかい。あの人はわたしの旧い友だちだが。」「へえ、わたくしは正武隊付きで、兵糧方でございましたから、よくも存じませんが、重立った御仁で助けられたものは一人もございませんようです。(中略)先月十七日以後のこともすこしは存じておりますが、十九日にも七十六人、二十三日も十六人が打ち首になりました。」「とうとう、あの亀山も武田耕雲斎や藤田小四郎なぞと死生を共にしたか。」 半蔵はお民と顔を見合わせた。

*****

#夜明け前

#島崎藤村

2025年1月22日水曜日

 【夜明け前拾い読み-26】

主人公(半蔵)は伊那で久しぶりにかっての同志(国学)と深く交流し、宣長・篤胤の教えに新たなる想いを抱きました。しかし私としては現実から離れた日本民族内でしか通用しない理想論というもどかしさを感じます。欧米社会とともにこの理想をともに共有するのは不可能で欧米から日本社会を守る「防衛力」が必須と思うからです。

欧米の軍事力で痛手を被った薩摩長州はいち早く欧米式の武器を手にし、さらには自ら製造することに意を注ぎ近代式軍事訓練を学ぶため欧米に使者を派遣しています。そしてこの軍事力で戊辰戦争を圧勝で終わらせ、その後欧米の植民地に堕ちることも回避できました。

ただ国学の理想からは大きく逸脱し、廃仏希釈のような誤った政策により日本民族の精神的誇りも失う結果になったように思います。現代に大きく飛躍しますが故安倍元総理はこの二つを同時に実現しようと試みたように思います。


以下本文抜粋しました。


*****

この新しき古は、中世のような権力万能の殻を脱ぎ捨てることによってのみ得らるる。この世に王と民としかなかったような上つ代に帰って行って、もう一度あの出発点から出直すことによってのみ得らるる。この彼がたどり着いた解釈のしかたによれば、古代に帰ることはすなわち自然に帰ることであり、自然に帰ることはすなわち新しき古を発見することである。中世は捨てねばならぬ。近つ代は迎えねばならぬ。どうかして現代の生活を根からくつがえして、全く新規なものを始めたい。そう彼が考えるようになったのもこの伊那の小さな旅であった。

*****


#夜明け前

#島崎藤村

2025年1月20日月曜日

 【夜明け前拾い読み-25】

ここの文章で藤村が尊王攘夷水戸学派に大きな共感をもっていることが良く分かります。それゆえ彼らの西行き旅程に多くの紙面を割いたのでしょう。

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。

*****

筑波の脱走者、浮浪の徒というふうに、世間の風評のみを真に受けた地方人民の中には、実際に浪士の一行を迎えて見て旅籠銭一人前弁当用共にお定めの二百五十文ずつ払って通るのを意外とした。あるものはまた、一行と共に動いて行く金の葵紋の箱、長柄の傘、御紋付きの長持から、長棒の駕籠の類まであるのを意外として、まるで三、四十万石の大名が通行の騒ぎだと言うものもある。しかし、それも理のないことではない。なぜかなら、その葵紋の箱も、傘も、長持も、長棒の駕籠も、すべて水戸烈公(徳川斉昭)を記念するためのものであったからで。たとい御隠居はそこにいないまでも、一行が「従二位大納言」の大旗を奉じながら動いて行くところは、生きてる人を護るとほとんど変わりがなかったからで。あの江戸駒込の別邸で永蟄居を免ぜられたことも知らずじまいにこの世を去った御隠居が生前に京都からの勅使を迎えることもできなかったかわりに、今「奉勅」と大書した旗を押し立てながら動いて行くのは、その人の愛する子か孫かのような水戸人もしくは準水戸人であるからで。幕府のいう賊徒であり、反対党のいう不忠の臣である彼らは、そこにいない御隠居にでもすがり、その人の志を彼らの志として、一歩でも遠く常陸のふるさとから離れようとしていたからで。

*****


#夜明け前

#島崎藤村


【夜明け前拾い読み-24】

木曽街道を西に移動していた水戸藩尊攘派と幕府の命を受けた諏訪・松本藩の討伐隊は下諏訪・砥沢口で衝突し、水戸藩尊攘派が勝利しました。

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。

*****

その時浪士の一人が山の上から放った銃丸は松本勢を指揮する大将に命中した。混乱はまずそこに起こった。勢いに乗じた浪士の一隊は小銃を連発しながら、直下の敵陣をめがけて山から乱れ降った。 耕雲斎は砥沢口まで進出した本陣にいた。それとばかり采配を振り、自ら陣太鼓を打ち鳴らして、最後の突撃に移った。あたりはもう暗い。諏訪方ではすでに浮き腰になるもの、後方の退路を危ぶむものが続出した。その時はまだまだ諏訪勢の陣は堅く、樋橋に踏みとどまって頑強に抵抗を続けようとする部隊もあったが、崩れはじめた全軍の足並みをどうすることもできなかった。もはや松本方もさんざんに見えるというふうで、早く退こうとするものが続きに続いた。 とうとう、田沼玄蕃頭(幕府から派遣の討伐軍)は来なかった。合戦は諏訪松本両勢の敗退となった。

*****

#夜明け前

#島崎藤村

【夜明け前拾い読み-23】

幕末における水戸藩は佐幕派の総本山という印象をもっていたのですが、ここでも佐幕・尊攘の激しい戦いがあったようです。藩内では佐幕派が勝利し尊攘派は大挙して西へ大移動し、移動中の街道筋にも大混乱を引き起こしています。小説は何故かこの道中にかなりの紙面を割いています。

以下本文抜粋しました。

*****

水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もない。それは実に藩論分裂の形であらわれて来た。もとより、一般の人心は動揺し、新しい世紀もようやくめぐって来て、だれもが右すべきか左すべきかと狼狽する時に当たっては、二百何十年来の旧を守って来た諸藩のうちで藩論の分裂しないところとてもなかった。水戸はことにそれが激しかったのだ。『大日本史』の大業を成就して、大義名分を明らかにし、学問を曲げてまで世に阿るものもある徳川時代にあってとにもかくにも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。彰考館の修史、弘道館の学問は、諸藩の学風を指導する役目を勤めた。当時における青年で多少なりとも水戸の影響を受けないものはなかったくらいである。いかんせん、水戸はこの熱意をもって尊王佐幕の一大矛盾につき当たった。

(中略)

湊の戦いで、大炊頭が幕府方の田沼玄蕃頭に降るころは、民兵や浮浪兵の離散するものも多かった。天狗連の全軍も分裂して、味方の陣営に火を放ち、田沼侯に降るのが千百人の余に上った。稲右衛門の率いる筑波勢の残党は湊の戦地から退いて、ほど近き館山に拠る耕雲斎の一隊に合流し、共に西に走るのほかはなかったのである。

*****


#夜明け前

#島崎藤村


2025年1月18日土曜日

【夜明け前拾い読み-22】

長州勢決死の攻勢は蛤御門前で最高潮に達したが、勇猛な会津勢を中心とした幕府勢に敗れ敗走しました。同時に尊王攘夷の急先鋒であった真木和泉(久留米藩)も最後は天王山にて自刃しました。

以下本文抜粋しました。

*****

なんと言っても蛤御門の付近は最も激戦であった。この方面は会津、桑名の護るところであったからで。皇居の西南には樟の大樹がある。築地を楯とし家を砦とする戦闘はその樹の周囲でことに激烈をきわめたという。その時になって長州は実にその正反対を会津に見いだしたのである。薩州勢なぞは別の方面にあって幕府方に多大な応援を与えたけれども、会津ほど正面の位置には立たなかった。ひたすら京都の守護をもって任ずる会津武士は敵として進んで来る長州勢を迎え撃ち、時には蛤御門を押し開き、筒先も恐れずに刀鎗を用いて接戦するほどの東北的な勇気をあらわしたという。 この市街戦はその日未の刻の終わりにわたった。長州方は中立売、蛤門、境町の三方面に破れ、およそ二百余の死体をのこしすてて敗走した。兵火の起こったのは巳の刻のころであったが、おりから風はますます強く、火の子は八方に散り、東は高瀬川から西は堀川に及び、南は九条にまで及んで下京のほとんど全都は火災のうちにあった。年寄りをたすけ幼いものを負った男や女は景蔵の右にも左にもあって、目も当てられないありさまであったと認めてある。

(中略)

しかし、景蔵の手紙はそれだけにとどまらない。その中には、真木和泉の死も報じてある。弘化安政のころから早くも尊王攘夷の運動を起こして一代の風雲児と謳われた彼、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人の計画に出たと言わるる彼、この尊攘の鼓吹者は自ら引き起こした戦闘の悲壮な空気の中に倒れて行った。彼は最後の二十一日まで踏みとどまろうとしたが、その時は山崎に退いた長州兵も散乱し、久坂、寺島、入江らの有力な同僚も皆戦死したあとで、天王山に走って、そこで自刃した。

*****

#夜明け前

#島崎藤村


2025年1月17日金曜日

【夜明け前拾い読み-21】

1863年攘夷・反幕府を公然と掲げ大和から天誅組の一揆が起こり、半年後に鎮圧されたが幕府の狼狽ぶりも明白になりました。この翌年に蛤御門の変が起きます。

以下本文抜粋しました。


*****

とうとう、新しい時代の来るのを待ち切れないような第一の烽火が大和地方に揚がった。これは千余人から成る天誅組の一揆という形であらわれて来た。紀州、津、郡山、彦根の四藩の力でもこれをしずめるには半月以上もかかった。しかし闇の空を貫く光のように高くひらめいて、やがて消えて行ったこの出来事は、名状しがたい暗示を多くの人の心に残した。従来、討幕を意味する運動が種々行なわれないでもないが、それは多く示威の形であらわれたので、かくばかり公然と幕府に反旗を翻した

*****


#夜明け前

#島崎藤村


【夜明け前拾い読み-20】

生麦事件後イギリスの高圧的な態度は激化していき、ついに薩長戦争にいたりました。この時点で薩摩も償金十万ポンドで十分とし譲歩の意思はまったくなかったようです、

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。

*****

半蔵は西から来る飛脚のうわさを聞いた。屈辱の外交とまで言われて支払い済みとなった生麦償金十万ポンドのほかに、被害者の親戚および負傷者の慰藉料としてイギリスから請求のあった二万五千ポンドはそのままに残っていて、あの問題はどうなったろうとは、かねて多くの人の心にかかっていた。はたして、イギリスは薩州侯と直接に交渉しようとするほどの強硬な態度に出て、薩摩方ではその請求を拒絶したという。西からの飛脚が持って来たうわさはその談判の破裂した結果であった。九隻からのイギリス艦隊は薩摩の港に迫ったという。海と陸とでの激しい戦いはすでに戦われたともいうことであった。

*****

#夜明け前

#島崎藤村

2025年1月16日木曜日

【夜明け前拾い読み-19】

現役を辞した父親に代わって本格的に取り組み始めた庄屋・本陣という主に武家のための仕事と国学者と言う勤皇派に近い立場との矛盾・軋轢を感じ始めていたようです。

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。

*****

「お民、おれのお母さんが亡くなってから、三十三年になるよ。」 と彼は妻に言って見せた。さびしい雨の音をきいていると、過去の青年時代を繞(めぐ)りに繞ったような名のつけようのない憂鬱がまた彼に帰って来る。 お民はすこし青ざめている夫の顔をながめながら言った。「あなたはため息ばかりついてるじゃありませんか。」「どうしておれはこういう家に生まれて来たかと考えるからさ。」 お民が奥の部屋の方へ子供を見に行ったあとでも、半蔵は囲炉裏ばたを離れなかった。彼はひとり周囲を見回した。遠い先祖から伝えられた家業を手がけて見ると、父吉左衛門にしても、祖父半六にしても、よくこのわずらわしい仕事を処理して来たと彼には思わるるほどだ。

(中略)

地方自治の一単位として村方の世話をする役を除いたら、それ以外の彼の勤めというものは、主として武家の奉公である。一庄屋としてこの政治に安んじられないものがあればこそ、民間の隠れたところにあっても、せめて勤王の味方に立とうと志している彼だ。周囲を見回すごとに、他の本陣問屋に伍して行くことすら彼には心苦しく思われて来た。

*****


#夜明け前

#島崎藤村

2025年1月15日水曜日

 【夜明け前拾い読み-18】

攘夷論が沸騰してきて世が騒然となりつつあるようです。幕府には井伊大老のように攘夷を抑える幕閣はすでになく、もともと穏健だった平田派国学者も時流に流される傾向が出てきたようです。

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。

*****

その月の八日はかねて幕府が問題の生麦事件でイギリス側に確答を約束したと言われる期日であり、十日は京都を初め列藩に前もって布告した攘夷の期日である。京都の友だちからも書いて来たように、イギリスとの衝突も避けがたいかに見えて来た。

*****


#夜明け前

#島崎藤村

2025年1月14日火曜日

【夜明け前拾い読み-17】

平田国学には攘夷という考えはあまりなかったようです。

以下私の解釈ですが

但しそれは「考え方やこれまでの風習と異なってもむやみに排斥するな」と言う程度のもので日本人にとって「暴挙」と言えるものをどうするかは教えていない。黒船来襲の前ですから。平田が現代に生きていて埼玉などの不法滞在外国人の暴挙をみたらどう思うか聞いてみたいところです。

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。

*****

先師(平田篤胤)と言えば、外国よりはいって来るものを異端邪説として蛇蝎のように憎みきらった人のように普通に思われているが、『静の岩屋』(平田の著作)なぞをあけて見ると、近くは朝鮮、シナ、インド、遠くはオランダまで、外国の事物が日本に集まって来るのは、すなわち神の心であるというような、こんな広い見方がしてある。

先師は異国の借り物をかなぐり捨てて本然の日本に帰れと教える人ではあっても、むやみにそれを排斥せよとは教えてない。 この『静の岩屋』の中には、「夷」という古言まで引き合いに出して、その言葉の意味が平常目に慣れ耳に触れるとは異なった事物をさしていうに過ぎないことも教えてある。

*****


#夜明け前

#島崎藤村

2025年1月13日月曜日

 【夜明け前拾い読み-16】

朝廷と幕府の力関係が大きく変動する現象が次々に起こり、街道筋は逐一その状況を映し出しています。

14代将軍家茂の上洛も重大な現象の一つと言えます。

以下本文抜粋しました。

*****

二月十三日に将軍は江戸を出発した。時節柄、万事質素に、という触れ込みであったが、それでもその通行筋にあたる東海道では一時旅人の通行を禁止するほどの厳重な警戒ぶりで、三月四日にはすでに京都に到着し、三千あまりの兵に護られながら二条城にはいった。この京都訪問は、三代将軍家光の時代まで怠らなかったという入朝の儀式を復活したものであり、当時の常識とも言うべき大義名分の声に聴いて幕府方においてもいささか鑑みるところのあった証拠であり、王室に対する過去の非礼を陳謝する意味のものでもあって、同時に公武合体の意をいたし、一切の政務は従前どおり関東に委任するよしの御沙汰を拝するためであった。宮様御降嫁以来、帝と将軍とはすでに義理ある御兄弟の間柄である。もしこれが一層王室と将軍家とを結びつけるなかだちとなり、政令二途に出るような危機を防ぎ止め、動揺する諸藩の人心をしずめることに役立つなら、上洛に要する莫大な費用も惜しむところではないと言って、関東方がこの旅に多くの望みをかけて行ったというに不思議はない。

*****

 【夜明け前拾い読み-15】

参勤交代廃止の影響は木曽の街道筋にもすぐに表れ、解放された人々(女性が多い)が江戸から次々と上がって来た馬籠の宿も賑やかになっていました。

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です

*****

越前の女中方、尾張の若殿に簾中、紀州の奥方ならびに女中方、それらの婦人や子供の一行が江戸の方から上って来て、いずれも本陣や問屋の前に駕籠を休めて行った。尾州の家中成瀬隼人正の女中方、肥前島原の女中方、因州(鳥取・因幡)の女中方なぞの通行が続きに続いた。これが馬籠峠というところかの顔つきの婦人もある。ようやく山の上の空気を自由に吸うことができたと言いたげな顔つきのものもある。半蔵の家に一泊ときめて、五、六人で比丘尼寺の蓮池の方まで遊び回り、谷川に下帯洗濯なぞをして来る女中方もある。

*****


#夜明け前

#島崎藤村

2025年1月12日日曜日

 【夜明け前拾い読み-14】

街道の人の流れが西→東から東→西に向かうようになり、時の流れも加速しはじめたことを半蔵は強く意識し始めました。

以下本文抜粋しました。

*****

年も暮れて行った。明ければ文久三年だ。その時になって見ると、東へ、東へと向かっていた多くの人の足は、全く反対な方角に向かうようになった。時局の中心はもはや江戸を去って、京都に移りつつあるやに見えて来た。それを半蔵は自分が奔走する街道の上に読んだ。彼も責任のあるからだとなってから、一層注意深い目を旅人の動きに向けるようになった。

*****


#夜明け前

#島崎藤村

 【夜明け前拾い読み-13】

徳川幕府が諸藩を統制する目的に遂行されてきた参勤交代制度が実質廃止されようとし、幕府威光の陰りが現実的となってきました。それは街道筋にも様々な影を落とす可能性も高まってきたようです。

以下本文抜粋しました。

*****

かねてうわさには上っていたが、いよいよ諸大名が参覲交代制度の変革も事実となって来た。これには幕府の諸有司の中にも反対するものが多かったというが、聰明で物に執着することの少ない一橋慶喜と、その相談相手なる松平春嶽とが、惜しげもなくこの英断に出た。言うまでもなく、参覲交代の制度は幕府が諸藩を統御するための重大な政策である。

これが変革されるということは、深い時代の要求がなくては叶わない。この一大改革はもう長いこと上にある識者の間に考えられて来たことであろうが、しかし吉左衛門親子のように下から見上げるものにとっても、この改変を余儀なくされるほどの幕府の衰えが目についた。

*****


#夜明け前

#島崎藤村



2025年1月11日土曜日

【夜明け前拾い読み-12】

和宮大行列が通過した後、祝儀金240両を巻き上げられたようです。金を出す方向が逆のように思いますねえ。

以下本文抜粋しました。

*****

伊之助 は 声 を 潜め ながら、 木曾 の 下 四宿 から 京都 方 の 役人 への 祝儀 として、 先方 の 求め により 二 百 二十 両 の 金 を 差し出し た こと を 語っ た。 祝儀 金 とは 名ばかり、 これ は いかにも 無念 千万 の こと で ある と 言っ て、 お 継ぎ 所 に 来 て い た 福島 方 の 役人 衆 までが 口唇 を かん だ こと を 語っ た。 伊那 助郷 の 交渉 を はじめ、 越後、 越中 の 人足 の 世話 から、 御 一行 を 迎える までの 各 宿 の 人々 の 心労 と 尽力 とを 見る 目 が あっ たら、 いかに 強欲 な 京都 方 の 役人 でも こんな 暗い 手 は 出せ なかっ た はず で ある と 語っ た。 「御 通行 の どさくさ に 紛れ て、 祝儀 金 を 巻き 揚げ て 行く とは ─ ─ 実に、 言語 に 絶 し た やり方 だ。」   と 言っ て、 金 兵衛 は 吉 左衛門 と 顔 を 見合わせ た。

*****


#夜明け前

#島崎藤村

 【夜明け前拾い読み-11】

公武合体の意向による皇女和宮輿入れの大行列が木曽の街道も通行した。その規模はこれまでの大名行列を遥かに上回り街道筋はありったけの人・馬を駆りだされ大騒ぎとなったようです。

以下本文抜粋しました。

*****

姫君 を 乗せ た お 輿 は 軍旅 の ごとき いで たち の 面々 に 前後 を 護ら れ ながら、 雨中 の 街道 を 通っ た。 いかめしい 鉄砲、 纏、 馬簾 の 陣立て は、 ほとんど 戦時 に 異なら なかっ た。 供奉 の 御 同勢 は いずれ も 陣笠、 腰弁当 で、 供 男 一人 ずつ 連れ ながら、 その あと に 随 っ た。 中山 大納言、 菊 亭 中納言、 千種 少将( 有文)、 岩倉 少将( 具視)、 その他 宰相 の 典侍、 命婦 能登 などが 供奉 の 人々 の 中 に あっ た。 京都 の 町奉行 関 出雲 守 が お 輿 の 先 を 警護 し、 お迎え として 江戸 から 上京 し た 若年寄 加納 遠江 守、 それ に 老女 ら も お供 を し た。 これら の 御 行列 が 動い て 行っ た 時 は、 馬籠 の 宿場 も 暗く なる ほどで、 その 日 の 夜 に 入る まで 駅路 に 人 の 動き の 絶える こと も なかっ た。

*****


#夜明け前

#島崎藤村

 【夜明け前拾い読み-10】

主人公(青山半蔵)の批判の矛先はペリー黒船から仏教にも向けられています。

しかし彼の周囲には同意するものはあまりいいないようです。

以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です

*****

あの 聖徳太子 が 仏教 を さかん に 弘め た も うて からは、 代々の帝 が みな 法師 を 尊信 し、 大寺 大伽藍 を 建てさせ、 天下 の 財用 を 尽くし て 御 信心 が 篤かっ た が、 しかし 法師 の 方 で その 本分 を 尽くし て これ ほどの 国家 の 厚意 に 報い た とは 見え ない。

(中略)

百姓 に 餓死 する もの は あっ ても、 餓死 し た 僧 の あっ た と 聞い た ためし は ない。 長い 習慣 は おそろしい もの で、 全国 を 通じ たら 何 百万 からの それら の 人 たち が 寺院 に 遊食(本来の仕事をせずに遊び暮らすこと) し て い ても、 あたりまえ の こと の よう に 思わ れ て 来 た。

*****

 #夜明け前

#島崎藤村

2025年1月10日金曜日

 【夜明け前拾い読み-9】

江戸の旅を伴にした寿平次と半蔵の会話

今では双方一人前の庄屋どうしです。


以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です


*****

(寿平次)

「半蔵 さん、 攘夷 なんて いう こと は、 君 の 話 に よく 出る『 漢 ごころ』 です よ。 外国 を 夷狄 の 国 と 考え て むやみ に 排斥 する のは、 やっぱり 唐土 から 教わっ た こと じゃ あり ませ ん か。」 「寿 平 次 さん は なかなか えらい こと を 言う。」 「そりゃ 君、 今日 の 外国 は 昔 の 夷狄 の 国 とは 違う。 貿易 も、 交通 も、 世界 の 大勢 で、 やむを得 ませ ん さ。 わたし たち は もっと よく 考え て、 国 を 開い て 行き たい。

(中略)

なんぞ と いう と、 すぐ に 攘夷 を かつぎ 出す。 半蔵 さん。 君 の お 仲間 は 今日 流行 の 攘夷 を どう 思い ます かさ。」


(中略)


(半蔵)

「君 だって も この 社会 の 変動 には 悩ん で いる ん でしょ う。 良い 小判 は さらっ て 行か れる、 物価 は 高く なる、 みんな の 生活 は 苦しく なる ─ ─ これ が 開港 の 結果 だ と する と、 こんな 排外 熱 の 起こっ て 来る のは 無理 も ない じゃ あり ませ ん か。」


#夜明け前

#島崎藤村

 【夜明け前拾い読み-8】

江戸から帰還後約3年、30歳を過ぎた多頃半蔵が平田門下として東美濃での自分の位置づけを自覚しはじめたようです

以下本文抜粋しました。

*****

半蔵 に し て 見る と、 彼 は この 伊那 地方 の 人 たち を 東美濃 の 同志 に 結びつける 中央 の 位置 に 自分 を 見いだし た ので ある。 賀茂真淵 から 本居宣長、 本居宣長 から 平田篤胤 と、 諸 大人 の 承け 継ぎ 承け 継ぎ し て 来 た もの を 消え ない 学問 の 燈火 に たとえる なら、 彼 は 木曾 の よう な 深い 山 の 中 に 住み ながら も、 一方 には 伊那 の 谷 の 方 を 望み、 一方 には 親しい 友だち の いる 中津川 から、 落合、 附 智、 久々 里、 大井、 岩村、 苗木 なぞ の 美濃 の 方 にまで、 あそこ にも、 ここ に もと、 その 燈火 を 数え て 見る こと が でき た。

*****

2025年1月9日木曜日

 【夜明け前拾い読み-7】

~桜田門外に果てた井伊大老の功~
安政の大獄で攘夷派をことごとく排斥したのが井伊大老です。
国学の徒である主人公にとっては言わば天敵なのですが、藤村は以下のように評価もしています。
こういう所は単なる思想家ではなく、馬籠宿で民間人として日々現実に向かい合った影響かもしれません。
実は主人公青山半蔵は藤村の実父をそのままモデルにしているようです。
以下本文抜粋しました。
*****
外国 交渉 の こと にかけて は、 天朝 の 威 をも 畏れ ず、 各 藩 の 意見 の ため にも 動かさ れ ず、 断然 として 和親 通商 を 許し た 上 で、 それから 上奏 の 手続き を 執っ た。 この 一事 は 天地 も 容れ ない 大罪 を 犯し た よう に 評する もの が 多い けれども、 もし この 決断 が なかっ たら、 日本国 は どう なっ たろ う。 軽く 見積もっ て 蝦夷 は もとより、 対州 も 壱岐 も 英米 仏 露 の 諸 外国 に 割き 取ら れ、 内地 諸所 の 埠頭 は 随意 に 占領 さ れ、 その 上 に 背負い 切れ ない ほどの 重い 償金 を 取ら れ、 シナ の 道 光 時代 の 末 の よう な 姿 に なっ て、 独立 の 体面 は とても 保た れ なかっ た かも しれ ない。 大老 が この 至険 至難 を しのぎ 切っ た のは、 この 国 にとって の 大功 と 言わ ね ば なる まい。 こんなふうに 言う 人 も あっ た。
*****

 【夜明け前拾い読み-6】

~井伊大老の下で安政の条約を草案・交渉した岩瀬肥後~
渡来人をただいたずらに「悪」と非難するだけでなく、冷静にファクトを見ていけばこういう状況もあったということですね。
しかし興奮して声だけ大きい人が主導すれば今の「報道しない自由」のように隠れてしまいがちですね。
岩瀬肥後は幕府でも位は低い方ですが、こういう人が危機を救うのが日本人の特色であるような気がします。
以下本文抜粋しました。
*****
条約 交渉 の 相手方 なる ヨーロッパ人 が 次第に 態度 を改めて 来 た こと をも 忘れ ては なら ない。 来るものも来るものも、 皆 ペリイ の よう な 態度 の 人 ばかりでは なかっ た の だ。 アメリカ 領事 ハリス、 その 書記 ヒュウスケン、 イギリスの 使節 エル ジン、 その 書記 オリファント、 これら の 人 たち は いずれ も 日本 を 知り、 日本 の 国情 という もの をも 認め た。中 には、 日本 に 来 た 最初 の 印象 は 思いがけない 文明 国 の 感じ で あっ た とさえ 言っ た 人 も ある。 すべて これら の 事情 は、 岩瀬 肥後 の よう に その 局 に 当たっ た 人 以外 には 多く伝わら ない。
*****

 【夜明け前拾い読み-5】

~神奈川での英国商人との取引打診~
主人公と同郷の商人が外国人との取引に「旨味」を感じた場面です。
混乱する幕府や一般庶民とは対照的に描かれていますね。
以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。
*****
「糸目 百 匁 あれ ば、 一両 で 引き取ろ う と 言っ て い ます。」   この 売り込み商の言葉 に、 安兵衛(美濃の生糸売り商人)らは 力 を 得 た。 百 匁 一両 は 前代未聞 の 相場 で あっ た。   早い 貿易 の 様子 も わかり、 糸 の 値段 も わかっ た。 この 上 は 一日 も 早く 神奈川 を 引き揚げ、 来る 年 の 春 までには できるだけ 多く の 糸 の 仕入れ も し て 来よ う。 この こと に 安兵衛 と 李 助 は 一致 し た。 二人 が 見本 の つもり で 持っ て 来 て、 牡丹 屋 の 亭主 に 預かっ て もらっ た 糸 まで 約束 が でき て、 その 荷 だけでも 一個 につき 百 三十 両 に 売れ た。
*****

 【夜明け前拾い読み-4】

ペリー黒船の横暴さを惜しむ藤村自身の述懐に思えます。
日本民族の争いを好まず外来者への柔軟性を訴えるいかにも国学の徒らしいものですが今後の軋轢を想起させますね。
以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。
*****
異国 ─ ─ アメリカ をも ロシヤ をも 含め た 広い 意味 での ヨーロッパ ─ ─ シナ でも なく 朝鮮 でも なく インド でも ない 異国 に対する この 国 の 人 の 最初 の 印象 は、 決して 後世 から 想像 する ような 好ましい もの では なかっ た。   もし 当時 の いわゆる 黒船、 あるいは 唐人 船 が、 二本 の 白旗 を この国の海岸に残して 置いて行く(降参するならこの旗を掲げよという意味) よう な 人 を 乗せ て 来 なかっ た なら。 もし その 黒船 が 力 に 訴え ても 開国 を 促そ う と する よう な 人でなし に、 真に 平和 修好 の 使節 を 乗せ て 来 た なら。 古来 この 国 に 住む もの は、 そう 異邦 から 渡っ て 来 た 人 たち を 毛 ぎらいする 民族 でも なかっ た。 むしろ それら の 人 たち を よろこび 迎え た 早い 歴史 をさえ 持っ て い た。 シナ、 インド は 知ら ない こと、 この 日本 の 関する かぎり、 もし 真に 相互 の 国際 の 義務 を 教えよ う として 渡来 し た 人 が あっ た なら、 よろこん で それ を 学ぼ う と し た に 違い ない。 また、 これ ほど 深刻 な 国内 の 動揺 と 狼狽 と 混乱 とを 経験 せ ず に 済ん だ かも しれ ない。 不幸 にも、 ヨーロッパ 人 は 世界 にわたって の 土地 征服者 として、 まず この 島国 の 人 の 目 に 映っ た。「 人間 の 組織的 な 意志 の 壮大 な 権化、 人間 の 合理的 な 利益 の ため には いかなる 原始的 な 自然 の 状態 に ある もの をも 克服 し 尽くそ う と いう ごとき 勇猛 な 目的 を 決定 する もの」 ─ ─
それ が 黒船 で あっ た の だ。
*****

 【夜明け前拾い読み-3】

江戸にて無事に平田一門の門徒に認められましたが、両国の宿寝床にていささか不安を感じていたようです。
以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。
*****
あの 鉄胤(平田篤胤の直接の弟子)から 古学 の 興隆 に 励め と 言わ れ て 来 た こと を 考え た。 世 は 濁り、 江戸 は 行き詰まり、 一切 の もの が 実に 雑然 紛然 として 互いに 叫び を あげ て いる 中 で、どうして 国学者 の 夢 などを この 地上 に 実現 し 得 られよ う と 考え た。 「自分 の よう な 愚か な もの が、 どうして 生きよ う。」
*****

 【夜明け前拾い読み-2】

旅の途上塩尻の手前あたりの追分宿で見せられ、騒然とした事の重大性を肌で感じた場面です。
以下本文抜粋しました。()内は私の注釈です。
*****
ある 松代の藩士から 借りて 写し取っ て 置い た という もの で あっ た。 嘉永 六 年 六月 十一 日付 として、 江戸 屋敷 の 方 に いる 人 の 書き送っ た もの で、 黒船 騒ぎ 当時 の 様子 を 伝え た もの で あっ た。
さて、 この たび の 異国 船、 国名 相 尋ね 候 ところ、 北 アメリカ と 申す ところ。 大船 四 艘 着船。 もっとも 船 の 中 より、 朝夕 一 両度 ずつ 大筒 など 打ち放し 申し 候 よし。 町人 並びに 近在 の もの は 賦役 に 遣わさ れ、 海岸 の 人家 も 大方 は うち つぶし て 諸家 様 の お 堅め 場所 となり、 民家 の 者 ども 妻子 を 引き連れ て 立ち退き 候 も あり、 米石日に高く(コメの値段が上がる)、 目 も 当て られ ず。 実に 戦国 の 習い、 是非 も なき 次第に これ あり 候。 八日 の 早暁 に い たり、 御触れ の 文面 左 の 通り。
一、 異国 船 万一 にも 内海 へ 乗り入れ、 非常 の 注進 これ あり 候節 は、 老中 より 八代 洲 河岸 火消し役 へ 相 達し、 同所 にて 平日 の 出火 に 紛れ ざる よう 早鐘 うち 出し 申す べき こと。
一、 右 の 通り、 火消し役 にて 早鐘 うち 出 し 候 節 は、 出火 の 通り 相 心得、 登城 の 道筋 その他 相 堅め 候 よう いたす べき こと。
一、 右 について は、 江戸 場末 まで 早鐘 行き届か ざる 場合 も これ ある べく、 万石 以上 の 面々 において は 早 半鐘 相 鳴らし 申す べき こと。
右 の おもむき、 御用 番 御 老中 よりも 仰せ られ 候。 とりあえず 当地 の あり さ ま 申し上げ 候。 以上。
*****

 【夜明け前拾い読み-1】

まだまだ序盤ですがボチボチ感想を含めて私なりのポイントをご紹介したい。この大作の薄っすらとした影なりとも感じていただければありがたい
主人公青山半蔵は賀茂真淵→本居宣長→平田篤胤の流れを汲む国学(彼の呼び方では古学)を学んでいる思想家ではあるが、現実には信州馬籠宿で本陣・庄屋役なので日々忙しく働く地元名士の民間人です。
時代はペリー黒船来航より西南の役までらしい。
以下友人への手紙より本文抜粋しました。()内は私の注釈です。
*****
「君 に よろこん で もらい たい こと が ある。 自分 は この 旅 (信州ー江戸ー相州三浦)で、 かねて の 平田 入門 の 志 を 果たそ う と し て いる。 (途中省略) 本居、 平田 諸 大人 の 国学 ほど 世 に 誤解 さ れ て いる もの は ない。 古代 の 人 に 見る よう な あの 直ぐな心 は、 もう一度 この世 に 求め られ ない ものか。 どうか し て 自分 ら は あの 出発点 に 帰り たい。 そこ から もう一度 この世 を 見直し たい。」
*****
黒船来航からの混乱を国学の視点から見直そうとしているらしい
これは島崎藤村の考えでもあるように感じました。

 散歩動画作成時間が浮いたので読書にふけようと

島崎藤村「夜明け前」(AmazonKindle 99円)
メチャ長い長編文学 挫折の確立五分五分
選んだ理由は一応それなりにあります
テキストの画像のようです
すべてのリアクション:
高松 俊王、久門田 充、他2人